誕生地
大村益次郎は 1825(文政8)年5月3日
父村田孝益 母うめの長男として吉敷郡鋳銭司村に生まれました 幼名は宗太郎 誕生地には石碑が立っています 1824年生まれという説もあります |
咸宜園
(かんぎえん)
1843(天保14)年 蘭学を学ぶには漢学の素養が必要だと 大分日田の広瀬淡窓の咸宜園に入門しました 益次郎はこの塾の教育法を参考に私塾の鳩居堂(きゅうきょどう)塾などで授業を行いました |
適塾
1846(弘化3)年 蘭学を本格的に学ぶため大阪の緒方洪庵の適塾に入門しました 適塾には全国から優秀な青年が集まり オランダ語や西洋の医学を学びました 益次郎は塾頭になりました |
オランダ語の学習ノート
適塾で学んでいた頃のノートです 毛筆で書かれています 塾生は塾に備えつけられたオランダ語の辞書を筆写しながら 昼夜を問わず猛勉強しました
(写真提供:山口市歴史民俗資料館) |
診療所を開設
1850(嘉永3)年 父孝益の希望により帰郷し鋳銭司村の四辻に西洋医術の診療所を開きましたが評判は上がらず 適塾で学んだ最新の医術を活かすことができませんでした |
宇和島文庫
1853(嘉永6)年 伊予の宇和島藩に出仕多くのオランダ語の書物を翻訳して宇和島文庫から兵学書として出版しました この頃から益次郎は西洋の兵学に強い関心を持つようになりました |
講武所跡
1856(安政3)年 宇和島藩主の参勤交代に
従い出府 幕府の洋学研究機関である蕃書調所の教授手伝や武術の訓練機関である講武所の教授に任命され 教育者として活躍しました |
藩庁門
1863(文久3)年 長州藩は藩庁(政庁)を萩から山口に移したため 益次郎は鋳銭司村から藩庁に通い政務にあたりました 山口県庁には当時の藩庁門がそのまま残されています |
普門寺
藩庁での政務多忙のため 益次郎は近くの普門寺を宿舎にして長州藩士に兵学を教え 幕府との戦いに備えました この塾は寺の名前をとって普門寺塾と呼ばれました |
扇原関門
1866(慶応2)年 第2次長州征討(四境戦争)が始まりました 益次郎は石州口の戦いの総司令官として益田の扇原関門で浜田藩と対峙 戦いに勝利し一気に益田の市街地に攻め込みました |
寛永寺の黒門
1868(明治元)年 寛永寺に立てこもった彰義隊ら旧幕府軍と益次郎を総司令官とする薩摩や長州などの新政府軍が黒門などで交戦(上野戦争と呼ばれています)1日で新政府軍が勝利しました |
兵部大輔の任命書
1869(明治2)年 官制改革により益次郎は初代の兵部大輔(ひょうぶたいふ)に任命され新政府の軍政を掌握する事実上の最高責任者となりました
(写真提供:山口市歴史民俗資料館)
|
遭難の地(京都木屋町) |
大阪仮病院跡の記念碑
(大阪法円坂)
益次郎は大阪の病院に移されボードウィン医師らの手厚い治療を受けましたが回復せず 1869(明治2)年11月5日 関係者に看取られながら亡くなりました 数え年の45歳でした |
益次郎の妻 琴子
|
墓所(鋳銭司今宿東)
大阪で亡くなった益次郎は 海路鋳銭司村に運ばれ旧居近くの円山の丘に埋葬されました 1935(昭和10)年 墓所は国の史跡に指定されました彼の遺徳を偲んで 今も参拝者が絶えません
|
旧大村神社(鋳銭司今宿東)
1872(明治5)年 墓所の後方に大村神社が建てられました 春には誕生祭 秋には命日祭が行われて 1946(昭和21)年 長沢池畔の現在地に移され 旧神社の姿は写真に残されました |
神道碑(鋳銭司今宿東)
1879(明治12)年 三條実美や伊藤博文井上馨らの寄付によって 墓所の後方に益次郎の事績などが記された石碑が立てられました神道碑(しんとうひ)と呼ばれています |
靖国神社の銅像(東京九段) |
テレビドラマ「花神」
1977(昭和52)年 司馬遼太郎の小説「花神」がNHKの大河ドラマで放送されました 中村梅之助が益次郎を演じ 浅丘ルリ子らが共演しました 誕生地の鋳銭司でもロケが行われました |
|